さくら荘のペットな彼女について。

やはり定期的に何かを記すというのは難しいということを学んだ一ヶ月の放置期間であった。ちびちび書いていきたい。

 

さてアニメ化が決定して勢いに乗っているさくら荘のペットな彼女であるが、8巻でほぼ物語が終局を迎えた。

あまり物語についてこねくり回すのはやめよう。ただ、僕はこの作品の主人公の、報われなさが好きだった。ちょうど自身の大きな挫折とも重なって、自分には哀れなほど何も無い、という状況を重ねて感傷に浸っていた。

さて、8巻では、その自分には何もないということの、筆者の答えが登場人物の口を借りて記されている。要約してしまえば、連続的であるということ。最初から何者かであった人間だなんて一人も居ないのだ、ということ。

これは一抹の真実であった。そして何より僕にこのことが響いたのが、「大学に入って人生上がり」ではなかったことと重なっていたからであった。離散的に人生を区切っていることは外部的なものであって、それは決して自身にとって本質的ではないということを知るのが遅すぎた。

しかしこの物語は、おそらく安易な解決に陥るだろう。あるいは陥っている。ボーイミーツガールの宿命である。

同時にライトノベルの登場人物ではない僕は、これからも、決して一人では生きていけない生活能力ゼロの美少女が寮に突然転がり込んでも来ず、周りには既に何者かになっているような同級生、同年代の人々にコンプレックスをちくちく刺激されながら、死んだような眼で毎日を送るだろう、それはとてもある種幸福なことではないか、とすら思われる。ライトノベルのような安易な解決をされては困る、戦いがいがないとすら思う。何者かになれなくても、戦った痕が僕には残っているだろう。そしてそれは、物語と僕との絶対的な分水嶺である。

特別でない自身という苦悩を誰かにとって特別な自分に変えて解決させるのは、卑近な解決である。(この場合、この物語では相手がサムワンスペシャルであるという話があるにせよ、単なる恋人二人に落とし込んでいる、決して特別な彼女と付き合える自分が特別だなんてことは言わない)しかしもっとも卑近な解決は自身で自身のことを誇って懐かしむことであるから、おそらく僕の救いはそのうちそうして生じるのではないか、と予想される。

けれどこういう物語に救いを求めるのもたまにはいいんじゃないか。という気持ちにさせてもらえるのは(要は、「こんなの結局、苦悩してすべてが上手く行っては綺麗過ぎないか」と思わせられないのは)十分苦悩している主人公を見てきたからだと思う。ということでいい作品である。(あまりにもたかだかライトノベルに自身に影響を与えさせてもよろしくないので、多少このあたりでこういうふうに「でもまあ一つの感想ですよ」、としてクッションをおいておかねばちょっと感受性の高すぎるひとみたいになってしまう)

最後に筆者に問うてみたいこと。果たしてさくら荘のペットな彼女はアニメ化まで行ったけれど、自身は何者かになれたと思うか、ということ。あるいは夢を叶えてライトノベル作家になった自身は、すでに何者かなのか、ということ。