俺の妹がこんなに可愛いわけがない!完結に寄せて

「そ、そうか、妹か、うん。なるほど。そっかあ、妹か、ふむ。」―アキハバラ学園/ネコミミ

 

五年間に渡った、愛すべき物語が幕を閉じた。

この作品はさまざまな切り口で語ることが出来る、非常に内容に富んだ作品だ。しかし僕は、ギャルゲーエロゲーという、妹というジャンルが比較的根強いオタク文化出身として、あえて真っ向からこの作品に挑んでいこうと思う。それは、この作品が真っ向から既存の妹像に挑んでいった作品だった(しかし、同時に既存の妹像をきちんと踏襲していたことも忘れてはならない!)ことに対する敬意の表明でもある。

 

オタク文化における妹キャラの始祖は誰だろうか?実はあまり明確に設定する必要が無いが、ここではOnly youの乃絵美とでもしておこう。

諸兄は妹バブルを知っているだろうか?シスタープリンセスがその最たる例としてあげられる。非常に暖かい、良い作品だった。妹バブル?とんでもない。クリエーターたちは常に本気で妹のことを考え続けている。

加奈をやったことはあるか?描かれる儚い存在から放たれる生命の輝きの力強さには感涙を禁じえないだろう。彼女もまた、妹だ。

それでも、あえて言い切ってしまおう、数々の例は良いのだ。細かな例外も良いのだ。大事なことはひとつしかない。彼女らは全て、素直で、純真だ、程度の差があれど、世の中でツンデレだと目されていようと。

 

ひるがえって桐乃はどうか。徹底的に生意気だ。理不尽という形容が一番近い。兄弟、家族に対する身勝手さを生々しいまでに描ききるとこうなってしまう。そしてそれは、妹キャラを描くまでに自然と捨象されていくものだ。

そこが新しいのだという主張は、あくまで安易だ。ゆえに、僕はここに別の切り口を加える、それは彼女の身勝手さというのが、また同時にオタク一般の身勝手さと重ね合わせて描かれている、という主張だ。ここの要素の重ね合わせが奇跡的に上手く行っている、ゆえに我々は、理不尽な彼女を嫌いになれない、愛すべき隣人だと思ってしまう。

このキャラ造形の奇跡的なバランスこそが俺妹の根幹なのだ。あとは勝手に物語が走っていくだろう。結果として描かれた物語は、妹キャラのエロゲーに自己を投影しているという構図を最初から示唆しておいて、最後の最後で全て回収する。なぜ逃避して投影する必要があったか、その問いに決着をつけるために儀式を執り行って、そういった伏線を回収する。

同時にこの逃避と投影の過程が、われわれのオタク文化にはまり込んでいった過程とも相通じるところがある、ゆえに感情移入してしまう、最後は自分のことのようにこの物語の終わりを喜んでしまう……。救済の物語としての側面もあるのだ。そして思わずこんな文章を勢いだけで書いてしまう。

 

よく出来た作品だった。間違いなく、00年代後半から、10年代前半における、ひとつの妹という属性に対する明確なアンサーを、この作品は与えた、あえて軽く述べるなら、そんなに良いもんじゃないらしいけど、妹って、やっぱ良いもんだよ、俺たちはもう知ってるんだ、愛すべき存在だよね、ってことだ。

 

「願わくば、明日のわたしが、今日のわたしより、優れた存在でありますように」―加奈

「そうよね ゲームには終わりがあるの 私は二次元の女の子 どんなにあなたが恋しくても 飽きられたらすぐ終わり―Rainbow girl